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2018-4-11

増田真樹(Techwave:編集長)|tochigi gene



増田真樹(ますだまさき) テックウェーブ とちぎのしゅし

 

③キャリアストーリー:アメリカ時代とスタートアップ支援を経てWEBメディア運営へ

 

「文章を書くお仕事」はいつから始められたのですか?

 

ライターの道

 

高校を卒業する時には、文章作成の延長で「ライターや編集者」のイメージを持ち始めていました。18歳の時にアスキーの編集の方から「文章も個性的だし、プログラミングもいいから、自分の記事を書いてみない?」とお話を頂いたのがスタートです。

 

その時は、自分でプログラミングした「クイズでGo!Go!」という「4択クイズのソフト」を紹介しました。当時は「編集のいろは」を持っていなかったので、非常に難産でしたね。その後「週刊アスキー」を筆頭に、テック系のほとんどの雑誌でライターをしていました。

 

90年代当時の日本には「新しいテクノロジーの情報」にニーズはほぼ無くて、代わりに求められていたのが「パソコンってなんですか?」「メールってなんですか?」というものでした。

⑦増田真樹(ますだまさき) テックウェーブ TECHWAVE とちぎのしゅし

 

それらの問いに対して「どう解りやすく伝えるか」という役割に徹していました。そして、今のメディア運営でも「できるだけ、わかりやすく伝える」という意識は変わっていません。

 

ある時、東京の新橋で数時間「人々がどんな話をしているか?」という定点観測をしました。その際、「メール」の話をしている人達が一定数、確認できたんです。そこで、今まで意識してきた「ITの浸透と啓蒙」のミッションが何となく「ひと段落」した感覚を得れました。

 

アメリカには何歳の時に行かれたのですか?

 

アメリカでの業務

 

23歳くらいの時、宇都宮にあったPCショップに在籍する事になりました。そこの副社長がアメリカ人で、シリコンバレーにも支社があったんです。そのご縁で、年に12ヶ月はアメリカのシリコンバレーやラスベガスで過ごす様になりました。

 

アメリカではどんなお仕事をされたのですか?

 

在籍期間中は、「プロダクト開発」もやったし、アメリカで「面白いハード」を見つけてローカライズして日本の大手通信会社に売るなどの「リセラー業務」も経験しました。

 

その会社は「アップル商品」の販売も得意でしたし、アップル社に「ソフトを開発して販売」もしていたんです。その経緯から、当時のアップルのエグゼクティブミーティングにも参加させてもらいました。オドオドしながら、当時のアップルジャパン社長の原田泳幸さんとランチミーティングをしたのは、今でも覚えています。笑。

⑨増田真樹(ますだまさき) テックウェーブ TECHWAVE とちぎのしゅし

当時の悔しい思い出に、アドビのFLASHの話がありまして。サンフランシスコのイベントで「フューチャースプラッシュ」というソフトを見つけたんです、私は「これは絶対うちでライセンスをとって日本で販売をしたい」と副社長に頼み込みました。

 

最初は副社長もしぶっていたのですが、最終的には動いてくれて、その会社と翌日にランチミーティングするアポイントがとれました。しかし、翌朝の朝刊に「フューチャースプラッシュをマクロメディア(後にアドビ傘下に)が買収」という記事が載っていて、本気で泣いたのを覚えています。

 

やられた!と思ったのですが、「自分の感覚の妥当性」を信じられる様になった出来事でもあります。

 

→私では想像しきれないレベルの体験を複数経験されていらっしゃる。アメリカでの活動を通じて、ご自身の「目や感覚」を磨かれたんですね。

 

 どのタイミングで、スタートアップのサポートが始まったのですか?

 

スタートアップ(起業・新規事業)のサポート

 

その後、フリーのライターになったのですが、同じ時期に人づてで「スタートアップ企業の立ち上げサポート」のご相談をもらいました。そこから、国内と海外の知人たちから「紹介や依頼」が続いて、現在までに合計50社を超えるプロジェクトをサポートしてきました。

 

どの様なサーポートをされていたんですか?

 

スタートアップには「アイディアを考える人」「お金を出す人」「作る人」が必要です。当時は、経営者が「アイディアとお金を出して」作り手が「作る」事が多く、その間で「プロダクトの全体設計や進行をする人」が少なかったんです。そこを私が担当する事が多かったですね。

 

具体的には、ターゲットや利益性を見て、「何をどう組み合わせるか?」を考えたり、「要件定義・予算管理・スケジュール管理・人員体制構築・マーケティング」など、プログラマーの知見と「アメリカでの経験」を活かして、ほぼトータル的にサポートしていました。簡単に言うと「雇われスタートアップ社長」ですね。

 

→とても重要で難しいポジションの様に感じます。幼少期からの動きをうかがっているので、何となくイメージできますが。

 

現在のWEBメディアの動きは、いつ頃から始まったのですか?

TECHWAVE 増田真樹(ますだまさき) テックウェーブ とちぎのしゅし

メディア運営

 

もともと雑誌でキャリアをスタートしましたが、アメリカやEUのメディアの先輩達から「大きな刺激」をたくさん頂いていたので、「どうにかしなくては」という課題感がありました。

 

シリコンバレーでのスタートアップから帰国した直後の2000年頃から、北米を中心に拡大していた「ブログ&CMS(コンテンツマネジメントシステム)」や「SNS」を日本に持ち込む取り組みをしていました。

 

つまり、特定の職能のある人を筆頭とした「書ける人にしか書けない」というメディアの状態はよくない。ブログ&CMSであれば、誰でも「一人新聞社」になれると思ったんです。草の根からソニーやニフティといった大手までを巻き込み、全力で支援していました。

 

→現在、実現されつつある「情報発信の民主化」の源流にいらっしゃったんですね。

 

しかし、当時はまだまだガラケーの時代でした。それで2008年くらいから大手携帯キャリアが手がける「ニュースポータル」の立ち上げに、編集デスクとして参画しました。

 

数千万単位の人の「民意」が莫大なトラフィックとして反映される事にとても興奮しましたね。ただ、まだまだ既成メディアの延長線上であった為、柔軟で多様性にあふれる世界はそこにはありませんでした。

⑪増田真樹(ますだまさき) テックウェーブ TECHWAVE とちぎのしゅし

テックウェーブのスタート

 

そこで出会ったのが当時、時事通信の編集員だった湯川鶴章氏です。彼が通信社をやめて新しいメディアをつくる際、合流を求めて頂いたんです。大いに「興奮」しましたね。シリコンバレーでの記者経験も長く、同じ課題を感じていた大先輩でした。

 

そこから20101月にテックウェーブのプロジェクトがスタート。LINEがスポンサーとなり、「グローバル視座」でシリコンバレーの情報を日本に届けるコンセプトを元に展開していきました。当時は、ジャズの「ジャムセッション」の様に全員が能動的に動いているチームだったので、非常に楽しかったです。

 

変化と挑戦

 

その活動は、当初の計画通り3年という節目(2013年)で一旦ストップさせました。いろいろなマイルストーンを作れましたが、法人としてシステムを作っていなかった為、初期のコアメンバーの個人的な関心が変わるとともに、離散してしまったんです。

 

ただ、私はテックウェーブ初期からの理念へのチャレンジを、止めたくはありませんでした。

TECHWAVEサミット 看板 増田真樹(ますだまさき) テックウェーブ とちぎのしゅし

その後、スペインのバルセロナに拠点をおくグローバルメディアにテックウェーブの「メディア&イベント」という仕組みを持ち込む前提で、グローバル戦略や日本版編集長として運営に2年携わりました。結局そのチャレンジも、本体の経営低迷により終了。

 

そこから、2017年にテックウェーブを再始動させ、今に至ります。止めていたメディアという点ではマイナススタートですが、マイナスから高い所に行く過程は楽しいです。過去より高い所に行こうとしている点は「やりがい」もありますね。


④イベントを通じて地域に問う




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この記事を書いた人

石川 智章

「栃木のしゅし」総合統括
県南エリア出身

ライフデザイン、WEBマーケティングの分野で実績を出し、都内ベンチャー企業の経営を歴任。親の闘病を機に栃木と東京の2拠点生活を開始。

思考進行!ワクワク・イキイキ暮らしたい。Goodを軸に、栃木(ローカル)の価値と魅力を再発掘していきます!

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