増田真樹(ますだまさき)
Techwave(テックウェーブ)編集長
県央エリア 宇都宮市在住
栃木県宇都宮市に住みながら、日本を軸としたテクノロジー経済WEBメディア「テックウェーブ」を運営する増田真樹さん(通称:マスキンさん)。
人と人を繋ぐ(ネットワークをつくる)のがメディアという考えの元、WEB媒体だけでなくリアルのイベントも開催。プログラマー経験やアメリカでの就業経験を活かし、今までに国内外50社以上のスタートアップをサポートした実績をお持ちです。
地方(栃木)に拠点をおきながら東京や世界を行き来し、「最新のテクノロジー」を紹介しているマスキンさんに、そのお話をうかがいます。
- ページ構成 -
①テックウェーブについて
②7歳からプログラミングをはじめた幼少期
③キャリアストーリー:アメリカ時代とスタートアップ支援を経てWEBメディア運営へ
④イベントを通じて地域に問う
⑤キャリアデザインに関するアドバイス
①テックウェーブについて
テックウェーブというメディアについて教えてください。
テックウェーブは、日本を軸に「社会を変える可能性があるデジタルテクノロジー」を紹介するメディアです。デジタルトランスフォーメンション(ITプロダクトを導入する事で起こる変革)は、企業においても重要。企画や意思決定者の方達にも情報ニーズがあると捉えています。
また、海外のテクノロジ―企業との接点も大切にしており、海外のテクノロジーを日本に紹介したり、逆に日本のテクノロジーを海外に繋げる動きもしています。
メディアを運営する上で、大切にされている事はありますか?
目次
読者や取材対象にとって「役に立つ」情報や機会を創出する
ユーザーにとって「役に立つ情報」である事を大切にしています。煽ってPVを稼ぐだけで中身の無い情報は作りたくない。「使える情報」という点では、その「サービス」しかり「裏側にいる本当のキーマン」も紹介し、結果的に読者と取材された側が「繋がれる仕組み」を作りたいと思っています。国内・世界にいるユーザー間の距離を縮めたいですね。
情報の非対称性をできるだけ無くす
現在、世界各国で「交流」は実現されていますが、「情報」という点では「ひとつのキーワード」でも場所によって差があり、結果的に「解釈」もズレている様に感じています。
例えば「電気自動車」や「宇宙事業」を展開する世界的な起業家イーロン・マスク氏でいえば、日本にはシリコンバレーでの動向ばかり入ってきますが、中国の都市と連携をしていたりもする。グローバル目線でみればもっと別の見え方が生まれてきます。
世界の主要な都市を俯瞰的に見て「ひとつのキーワード」を把握した方がいい。それを助ける「情報メディア」や「人的交流を促す仕組み」が必要だと考えているんです。
「情報や解釈の誤差」を出来る限りなくす為に、世界各地の「拠点」から情報を整え、各国の「ユーザーとの交流」を実現していきたい。起こっている事実の認知化を促しつつ、「情報の非対称性」を無くすイメージで、しっかり情報を吸い上げたいですね。
→日本や地方の一か所にいる場合、情報でしか世界の事は理解できないですよね。その情報の正確性が高い事はありがたいことです。受け手としては情報の捉え方や扱い方には気を付けたいですね。
現在の形になるまでのキャリアを教えてください。
もともとは「プログラマー」でした。7歳の頃から簡単なゲームをつくってましたよ。 家は音楽一家。私は絵画にも興味を示していたので、一人マルチメディアみたいな感じだったな。笑
18歳くらいから、テクノロジーに関連する「執筆」もする様になり、後にアメリカと日本を行き来する生活になりました。最終的にはEUの世界的企業に勤務したり、個人として海外の企業と関係を持つ中で、国内外50社以上のスタートップの立ち上げに携わりました。
先ほど話した通り、7歳からプログラミンをやってきたので「つくってなんぼ」という姿勢が今もベースにあります。子供の頃から「ITの可能性」を強く感じており「広めて普及させる」ことを一貫してやってきています。
→7歳!!当時の日本で、そんな事がありえたんですね。
②7歳からプログラミングをはじめた幼少期
7歳でプログラミングを始める「きっかけ」は何だったのですか?
親戚のおじさんがパソコンを購入して、私が夏休みの時に10日間貸してくれたことが「きっかけ」です。その10日間は、朝から父が帰ってくるまで夢中でプログラミングしていました。その後も、プログラミンを独学で学びつつ、宇都宮で出会った大人のエンジニア達と交流を深めていきました。
当時は、NECやシャープのマイコンが栃木で作られていたんです。宇都宮市内にもパソコンショップが10店舗近くあって、そこにはパソコンを数台貸し出す研究室もありました。そこにプログラマーやエンジニアが集まっていて、みな既存のコードを解読して別のゲームを作ったり、今でいうスタートアップの文化が30年以上前の宇都宮にあったんです。
私がTech系の創出に魅了されたのは小学生の後半から、ゲームのコードを学んで独自のゲームを造る様になりました。小学生ながらに、ゲームを自分で作って学校帰りに友達がそのゲームで遊んでいました。6年生の時は、自分で作ったゲームを秋葉原で売った経験もあります。小学生にとっては良いお小遣いでしたね。笑
→叔父さんがパソコンを貸してくれたことがきっかけで、プログラマーへの道がひらかれたんですね。宇都宮に技術者がたくさんいた事は驚きです!今でこそ、学校教育に「プログラミングが必修科目になる」という時代になりましたが、マスキンさんは30年前にそれを体験されていたんですね。凄い。
どんな子供でしたか?
プログラミングもそうでしたが、私は「ものづくり」が好きだったんだと思います。ブロック遊びに熱中していたので集中力はあったのかもしれません。
ものをつくる喜び
両親は音楽家で講師もしていました。そこに通っていた幼馴染(おさななじみ)がチェロで世界一になったりと、周りにすごい人が多かったので、「創造すること」に対して「強い刺激」を受けた幼少期だったと思います。
※私は音楽の道にはいきませんでしたが、後に「坂本龍一さん」や「DJ松浦俊夫さん」「m-floのDJ Takuさん」など、一流の方達と交流が生まれたのは面白いご縁です。
小学校の頃は、学校に「好きな先生」がいなくて。それも関係して、プライベートで「モノづくり」にのめり込んでいったんだと思います。漫画を描くのが好きで、友達と「インドクラブ」という漫画の同人会を作ったり。描いた用紙を針と糸で製本したりと、結構こってましたよ。
中学3年生の時に「パイナップルARMY」という浦沢直樹さんの漫画に「すごく感動」して。その感動を「文章で再表現できないか」とチャレンジしたのですが、まったく表現できませんでした。それが「すごく悔しかった」のを今でも覚えています。そこで文章作成に火がついたのかもしれません。
→漫画や文章作成もれっきとしたモノづくりですよね。これはどの子供でもチャレンジできそう!中学の時はプログラミングはしていたんですか?
プログラミングは継続していました。友達と「三角点」というチームを組んで「アドベンチャーゲーム」を作ったりしていました。音楽担当・構成担当、を決めて取り組みましたが、誰もやってこなくて。笑。結局私一人で作ったという想い出があります。笑。それがきっかけにもなり、当時全国でも数校だけが展開する「IT系の特別カリキュラム」があった高校に進学しました。
「プログラミング」と「アートや文章作成」の作り方は似ている
高校は結局、先生の知識が足らず、私が先生にプログラミングを教えるという「トホホ・・」な状況で、けっこう挫折感を味わいました。ただ、コンピューターに触れる機会は増えて、プログラミングと文章作成が「非常に近い」と感じたのを覚えています。
全体の構成をどうするか考えたり。ただコピーするだけではなく自分の中で咀嚼(そしゃく)して変更したり。「ちょっとした所」にこだわって自己満足的に美しく書いたり。作り方の「思想」の部分は一緒だと感じました。とはいえ、高校時代に一番熱中していたのはバンド活動でしたが。笑
③キャリアストーリー:アメリカ時代とスタートアップ支援を経てWEBメディア運営へ
③キャリアストーリー:アメリカ時代とスタートアップ支援を経てWEBメディア運営へ
「文章を書くお仕事」はいつから始められたのですか?
ライターの道
高校を卒業する時には、文章作成の延長で「ライターや編集者」のイメージを持ち始めていました。18歳の時にアスキーの編集の方から「文章も個性的だし、プログラミングもいいから、自分の記事を書いてみない?」とお話を頂いたのがスタートです。
その時は、自分でプログラミングした「クイズでGo!Go!」という「4択クイズのソフト」を紹介しました。当時は「編集のいろは」を持っていなかったので、非常に難産でしたね。その後「週刊アスキー」を筆頭に、テック系のほとんどの雑誌でライターをしていました。
90年代当時の日本には「新しいテクノロジーの情報」にニーズはほぼ無くて、代わりに求められていたのが「パソコンってなんですか?」「メールってなんですか?」というものでした。
それらの問いに対して「どう解りやすく伝えるか」という役割に徹していました。そして、今のメディア運営でも「できるだけ、わかりやすく伝える」という意識は変わっていません。
ある時、東京の新橋で数時間「人々がどんな話をしているか?」という定点観測をしました。その際、「メール」の話をしている人達が一定数、確認できたんです。そこで、今まで意識してきた「ITの浸透と啓蒙」のミッションが何となく「ひと段落」した感覚を得れました。
アメリカには何歳の時に行かれたのですか?
アメリカでの業務
23歳くらいの時、宇都宮にあったPCショップに在籍する事になりました。そこの副社長がアメリカ人で、シリコンバレーにも支社があったんです。そのご縁で、年に1,2ヶ月はアメリカのシリコンバレーやラスベガスで過ごす様になりました。
アメリカではどんなお仕事をされたのですか?
在籍期間中は、「プロダクト開発」もやったし、アメリカで「面白いハード」を見つけてローカライズして日本の大手通信会社に売るなどの「リセラー業務」も経験しました。
その会社は「アップル商品」の販売も得意でしたし、アップル社に「ソフトを開発して販売」もしていたんです。その経緯から、当時のアップルのエグゼクティブミーティングにも参加させてもらいました。オドオドしながら、当時のアップルジャパン社長の原田泳幸さんとランチミーティングをしたのは、今でも覚えています。笑。
当時の悔しい思い出に、アドビのFLASHの話がありまして。サンフランシスコのイベントで「フューチャースプラッシュ」というソフトを見つけたんです、私は「これは絶対うちでライセンスをとって日本で販売をしたい」と副社長に頼み込みました。
最初は副社長もしぶっていたのですが、最終的には動いてくれて、その会社と翌日にランチミーティングするアポイントがとれました。しかし、翌朝の朝刊に「フューチャースプラッシュをマクロメディア(後にアドビ傘下に)が買収」という記事が載っていて、本気で泣いたのを覚えています。
やられた!と思ったのですが、「自分の感覚の妥当性」を信じられる様になった出来事でもあります。
→私では想像しきれないレベルの体験を複数経験されていらっしゃる。アメリカでの活動を通じて、ご自身の「目や感覚」を磨かれたんですね。
どのタイミングで、スタートアップのサポートが始まったのですか?
スタートアップ(起業・新規事業)のサポート
その後、フリーのライターになったのですが、同じ時期に人づてで「スタートアップ企業の立ち上げサポート」のご相談をもらいました。そこから、国内と海外の知人たちから「紹介や依頼」が続いて、現在までに合計50社を超えるプロジェクトをサポートしてきました。
どの様なサーポートをされていたんですか?
スタートアップには「アイディアを考える人」「お金を出す人」「作る人」が必要です。当時は、経営者が「アイディアとお金を出して」作り手が「作る」事が多く、その間で「プロダクトの全体設計や進行をする人」が少なかったんです。そこを私が担当する事が多かったですね。
具体的には、ターゲットや利益性を見て、「何をどう組み合わせるか?」を考えたり、「要件定義・予算管理・スケジュール管理・人員体制構築・マーケティング」など、プログラマーの知見と「アメリカでの経験」を活かして、ほぼトータル的にサポートしていました。簡単に言うと「雇われスタートアップ社長」ですね。
→とても重要で難しいポジションの様に感じます。幼少期からの動きをうかがっているので、何となくイメージできますが。
現在のWEBメディアの動きは、いつ頃から始まったのですか?
メディア運営
もともと雑誌でキャリアをスタートしましたが、アメリカやEUのメディアの先輩達から「大きな刺激」をたくさん頂いていたので、「どうにかしなくては」という課題感がありました。
シリコンバレーでのスタートアップから帰国した直後の2000年頃から、北米を中心に拡大していた「ブログ&CMS(コンテンツマネジメントシステム)」や「SNS」を日本に持ち込む取り組みをしていました。
つまり、特定の職能のある人を筆頭とした「書ける人にしか書けない」というメディアの状態はよくない。ブログ&CMSであれば、誰でも「一人新聞社」になれると思ったんです。草の根からソニーやニフティといった大手までを巻き込み、全力で支援していました。
→現在、実現されつつある「情報発信の民主化」の源流にいらっしゃったんですね。
しかし、当時はまだまだガラケーの時代でした。それで2008年くらいから大手携帯キャリアが手がける「ニュースポータル」の立ち上げに、編集デスクとして参画しました。
数千万単位の人の「民意」が莫大なトラフィックとして反映される事にとても興奮しましたね。ただ、まだまだ既成メディアの延長線上であった為、柔軟で多様性にあふれる世界はそこにはありませんでした。
テックウェーブのスタート
そこで出会ったのが当時、時事通信の編集員だった湯川鶴章氏です。彼が通信社をやめて新しいメディアをつくる際、合流を求めて頂いたんです。大いに「興奮」しましたね。シリコンバレーでの記者経験も長く、同じ課題を感じていた大先輩でした。
そこから2010年1月にテックウェーブのプロジェクトがスタート。LINEがスポンサーとなり、「グローバル視座」でシリコンバレーの情報を日本に届けるコンセプトを元に展開していきました。当時は、ジャズの「ジャムセッション」の様に全員が能動的に動いているチームだったので、非常に楽しかったです。
変化と挑戦
その活動は、当初の計画通り3年という節目(2013年)で一旦ストップさせました。いろいろなマイルストーンを作れましたが、法人としてシステムを作っていなかった為、初期のコアメンバーの個人的な関心が変わるとともに、離散してしまったんです。
ただ、私はテックウェーブ初期からの理念へのチャレンジを、止めたくはありませんでした。
その後、スペインのバルセロナに拠点をおくグローバルメディアにテックウェーブの「メディア&イベント」という仕組みを持ち込む前提で、グローバル戦略や日本版編集長として運営に2年携わりました。結局そのチャレンジも、本体の経営低迷により終了。
そこから、2017年にテックウェーブを再始動させ、今に至ります。止めていたメディアという点ではマイナススタートですが、マイナスから高い所に行く過程は楽しいです。過去より高い所に行こうとしている点は「やりがい」もありますね。
④イベントを通じて地域に問う
イベント開催
活動の一つとして、「テックウェーブサミット」や「とちぎグローバルスタートアップサミット」というリアルイベントも開催しています。
テックウェーブサミット
2017年に東京国際フォーラムにて1万人以上来場者がいるアドテック東京の一部として展開。TechWaveが描くメディア像を追及すべく一定の規模間を持った交流イベントを実現。
とちぎグローバルスタートアップサミット
ネットやスマホの普及から、場所に依存せず全国・世界にチャレンジできる時代になり「栃木でもそういう動きをおこしたい」とスタートさせた取り組み。
・1回目(2013年1月)|2回目(2017年12月)に開催。
地域に問う
栃木のビジネスシーンを見渡すと「上から言われた事だけをやる」ルーチンビジネスマンが多い印象でした。売り上げを上げる事しかやらず、クリエイティブに「新たな事業機会や成長機会」を見い出そうとしない商圏は、いずれ終焉を迎えると感じていました。
それなら「日本でもトップレベルのクリエイターを栃木に呼んでしまおう!」とビジネスカンファレンスを企画したんです。
平日の日中だろうと、師走の忙しい時だろうと「慣習の犬になっている場合じゃない」そんなことを仕掛けたかったんです。「本心で今のルーチンワークに依存し続けてるんですか?」ということを問いたかった。
→世界規模の「最新の技術や発想」を知るマスキンさんだからこそ、それぞれの場所での課題と必要なものが、見えていらっしゃるのかもしれませんね。メディアだけでなく、イベントを通じて「課題解決提案」や「変化を促す仕組み」を仕掛けていらっしゃるのは凄い。尊敬すると共に、ありがたくも感じます。
栃木の印象を教えてください。
まず、自然が豊かですよね。妻の病気がきっかけで栃木に戻ってきて、リモートワークを始めたのですが、子供の喘息(ぜんそく)が治ったのは驚きました。
あとは人ですね。個々人で見ると栃木は「良い人」が多いなぁと感じます。そこはチャンスですよね。市役所にも「前向きな人」がいますし。ただ、その「人」が集うと「おかしくなっている」気はしています。いわゆる村社会の弊害。ご近所に依存することが最優先事項となって、多様性や創造性をたたき壊してしまっている。
組織や地域への「依存性が高い」傾向は、海外や東京に比べて、大衆としてのコミュニケーションの「量や質が低い」というか、「多様性」や「人権感覚」への尊重が出来ていない所を感じています。
私が若い時は「どこに住んでもいいや」と思っていましたが、宇都宮に戻ってきてから15年住んでみて「どうにか、環境を良くできないか」と考える様になりました。
「栃木とグローバルの繋がり」が生まれている「いい面」もあるので、それらを伝えていきたいですし、「企業誘致」などのサポートもして、栃木県の人達の「働き方」などにも、何かしらの貢献が出来ればと考えています。
→何かに依存しすぎる事で、歪んでしまうものってありますよね。テクノロジーの進化は「ルールやあり方」の進化にも繋がる。それらを最適化していく事は県内のどの共同体においても課題であり、一方でチャンスでもあると思います。
⑤キャリアに関するアドバイス
自分に合った「道」や「仕事」を探す人にアドバイスをお願いします。
自分の能力で収入を得る
若いうちは特にですが、「安定的」かつ「楽な道」を選ぶ事は一番やってはいけないと思います。そう思った瞬間に人間としての成長は止まる。組織の中での役職みたいな「ラベル」はアップデートされるかもしれませんが、本質的な成長からは乖離(かいり)が生まれてしまいます。
それを打破するという意味でも「自分の能力で収入を得る」というサイクルを回していく事が大切です。「受け身」というか「依存的な発想と生き方」になり、若くして自我を無くしてしまうのは「もったいない!」。
依存の全てが悪いという訳ではないですが、日本では「大企業や公務員が安定しているから良い」という意見をよく聞きます。目的が「安定」になってしまい「やりがい」などを見ずに「言われた事だけをこなす働き方」になる事は本当に危険だと思います。既存の「組織」や「仕組み」の中には人をダメにするものもあるからです。
それらに対して、自分自身で「見極め」や「脱出」をする事も重要なんです。「依存的な発想」になってしまうと、その「アクション自体」ができなくなってしまいます。挑戦もできなくなると思うんです。
コンフォートゾーンに留まらない
今、日本は、国際社会で生き残れるかどうかの「瀬戸際」にあります。私がアメリカにいる時から、グローバル社会での存在感が非常にプアでしたが、おそらく今は、戦後最悪の状態かもしれない、世界の人々から存在を認められていない。
これは「島国だから誰にも干渉されなくて楽」という恩恵に、ぶら下がり過ぎている結果でもあります。「ネオ鎖国」は非常に危険。その中で「ゆるい所」にいく事はさらに危険です。
いきなり「グローバル化だ!」というのは劇薬に近い「拒否反応」を生んでしまうかもしれませんが、「売上が1日1円でも伸びている組織」や「みんなが同じベクトルで、多方向に動いている組織」などを選んで、自分の能力を高めること可能です。人生を有意義にする上でもその方がいいと私は考えます。
若い人はモテる時代
あとは、若い時から色々チャレンジして「思い通りにいかない」という経験しておくといいんじゃないでしょうか。就職についても売り手市場ですし、スタートアップシーンでも若い人はモテる時代です。
ネオ鎖国している上にモテるとなると、現状に満足しやすい状況でもあります。見方を変えればそれは「成長を止めやすい」というリスクにもなります。小さいところに収まり、自分の成長に蓋をする事だけはしないでほしい。
楽な事だけを継続してうまくやっていても、そこに「進化や変化」が無い場合、周りが変化している分、「停滞」を生んでいる事になります。長期的には危険です。
ここ2,3年で海外の国々が日本を簡単に抜いてしまいました。国内ではいい評価となっても、香港などの海外からの視点で日本を見ると「このぬるま湯はなんだ」「もっと頑張ってもいい」と評価が変わります。違う視点から、コンフォートゾーンを見ると、意識が変りやすいんです。
自分が何をやりたいか
自ら「売る体験」や「作る体験」を経験したり、どんどん海外にも行き「視点を増やす」経験をお勧めします。その為には、収入や組織規模の基準だけでなく、自分が「何をやりたいか」「その為には何をやるべきか」を考え続ける事が重要です。
たとえ今は見つからなくても、働きながら考えればいい。私自身、今も「自分と向き合う事」には気を付けています。ステイハングリー・ステイフーリッシュという言葉は、その通りだと思います。
編集後記
幼少期からプログラミングに触れ、その技術を発展させていったマスキンさん。その背景に、当時の宇都宮市のビジネス特性や環境が関係していたのは、非常に興味深い所でした。
インタビューを通じて知る事ができた「マスキンさんの経験」は異質であり、その「違い」の分だけ、私の様な一般人にとって「貴重」な知見と情報になる。私はそこに役割分担に近い感覚を得ました。
人々の暮らしや共同体の今後の展開において、デジタルトランスフォーメンション(ITプロダクトを導入する事で起こる変革)は重要な役割を担っています。習慣を変化させる事は「怖い」と感じる方もいらっしゃるでしょうが、同時に「変化しない怖さ」を見ておく必要もあります。
「伝統と最新技術」は、必ずしも対立するとは言い切れません。シンプルに「今までの良い物をいかし、最新の良い物を取り入れ、更に良くする」と考えてみてもいいでしょう。
「組織や地域」の真の発展には、我々(民間、行政、市民)こそが、いい方向に歩んでいく「意識」をする事が重要であり、その主体性が増す事で「進歩していく技術」に対しても「頼もしさ」を感じれるかもしれません。
見方によって「ワクワクする!」「やばい!」など様々な動機を持つ事ができます。その延長にある「興味」と「最新の情報や技術」が交わる中で「今の改善」に繋がる「いいアイディア」が生まれてくるのかもしれません。
あなたはどう思いましたか?
情報
◆テックウェーブ https://techwave.jp/
◆ラジオ番組「アプリトーク!(Apps Talk!)」|レディオベリー:2018年4月からスタート
https://www.facebook.com/AppsTalk-229441830946569/
増田さんとパーソナリティ鹿島田千帆さん(20年来の盟友の再開企画)
①テックウェーブについて
②7歳からプログラミングをはじめた幼少期
③キャリアストーリー:アメリカ時代とスタートアップ支援を経てWEBメディア運営へ
④イベントを通じて地域に問う
⑤キャリアデザインに関するアドバイス